2010年6月20日(日曜日)

発表のお知らせ、など

カテゴリー: - araya @ 22時33分16秒

原稿執筆中。来週土曜の哲学/倫理セミナーと、再来週日曜の表象文化論学会のパネルで発表します(詳細は下記)。よろしくどうぞ。

あ、それとついでに、科研でやっていたエコノミー概念の調査の報告書が出ました。アガンベンの本が出たから割合に知られてきたけれど、エコノミーという概念は、後期ストアを経て神学に流れ込み、ルネッサンス期のストアの読み返しを経て直接近代経済学へと流れ込んでいるもので、その変遷をたどると「経済」と語られて忘却されている歴史的な背景がすごくなまなましいかたちでわかります。数年前から哲学史の中の用例を探っていく作業を継続して行ってきた研究会の成果が、資料集というかたちで報告書で出てますのでご報告しておきます。これ実際、見てもらえればわかるのだけれど、哲学の歴史をエコノミー概念の変遷としてとらえ直すことができるかもと思わせるほど、これまで全く掘り下げられていない問題群がいきなり開かれるのがわかります。せっかくなのでみんなでネタを分かち合って開拓していきたいところ。欲しい方はメールしてもらえれば、お送りすることができます。

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哲学/倫理学セミナー

 第六八回例会 平成22年6月26日(土)14時30分から16時40分まで

          於 文京区民センター 3-B会議室
       (http://pe-seminar.hp.infoseek.co.jp/map.html)

 第一部  14時30分から15時30分まで 
 構想発表 「活動と完全性
         ――アリストテレス倫理学における完全性について――」
                            加藤 喜市

  アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の中で,「完全性」という概念が
 重要な働きを担う文脈は,二つ存在している.まず,第10巻前半の快楽論
 において,この概念が中心的な役割を果たしていることは,否定され得な
 いだろう.そこで語られるのは,快楽が(i)「完全なものであり」,(ii)
 「完全な活動に付随して」,(iii)「活動を完全にする」という三つの論点
 である.実際,「快楽とは完全化にほかならない」という解釈も提出される
 ほどに,二つの概念は分かちがたく結びついている.
  また完全性は,ギリシア語における「目的」概念との密接な関係からす
 ると当然ともいえるが,幸福論という文脈では,いわば鍵概念として機能
 する.幸福論に属する第1巻では,主として目的・生・徳の完全性という
 かたちで完全性の概念が現れる.他方,第10巻後半の幸福論における,
 完全な幸福と二次的な幸福(=観想的生と実践的生)という対比は,同箇
 所の幸福論の主軸を成すものといえるだろう.
  快楽論と幸福論における完全性の意味合いを問うことを通して,アリス
 トテレス倫理学における快楽と幸福の関係を再検討すること,および完全
 性概念の持つ哲学的意義を汲み取ることが,論文全体の課題となる.『形而
 上学』Δ巻第16章の規定を手掛かりにしつつ,上記二つの文脈を取りあげ
 て,それぞれにおける完全性の諸相を明らかにすることが,論攷の主たる
 作業となるだろう.本発表では,その概要を述べることで,構想を示すこ
 ととしたい.

 【参考文献】
 ■アリストテレス『ニコマコス倫理学』,『形而上学』
 ■加藤喜市「アリストテレス倫理学における快楽と苦痛について」
  (早稲田大学哲学会『フィロソフィア』第97号,pp.168-171,2010年)

 第二部  15時40分から16時40分まで
 構想発表 「構造転換の可能性
         ――ラカンにおけるディスクール間の移行について――」 
                            荒谷 大輔

  「享受せよ」という無意識の指令を、資本主義体制における主体は、個的
 主体の趣味的な消費へ移し替え、そのことによってシステム内に自らの位置
 を得る。だが、そうした消費社会の主体は、ラカンによれば、生産手段とし
 ての知(ノウハウ: savoir-faire)を稼働させて剰余を産出しながら、手の
 先から零れ落としてその享楽をシステムに受け渡す。よく知られるように
 ラカンは、欲望の構造化において機能する四つのエレメント(S1,S2,a,S
 barré)の配置によって規定される四つのディスクールのうち、資本主義の
 ディスクールととりわけ親和的なものを、「主人のディスクール」に見たの
 であった。
  本発表では、しばしば、ラカンのテクストだけを根拠に上滑り的に語られ
 るこうした説明図式の妥当性を、哲学の歴史的文脈と社会的現実性に照らし
 て検討しつつ、ラカンの語るディスクール間の転換の可能性について考察し
 たい。コジェーブ経由で参照されるヘーゲルの主奴の弁証法は、そもそも、
 自己意識的な主体の形成を論理的に記述するための図式であったが、それは、
 市民社会=資本主義社会における主体の有り様を跡づけるものと捉え直すこ
 ともできる。ラカンにおける市民社会論の精神分析的読み替えを辿り直すこ
 とで、構造が変化する可能性の糸口を探っていきたい。

 【参考文献】
 ■Lacan, Séminaire XVII
 ■ヘーゲル『精神現象学』

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表象文化論学会 7月4日、研究発表3
http://www.repre.org/event/conference/index.html


2010年4月25日(日曜日)

Portrait par Raphael Gianelli-Meriano

カテゴリー: - araya @ 10時29分48秒

写真家/映像作家のラファエル・ジアネッリ=モリアノにとってもらったポートレートが、彼のサイトにアップされました。彼の作品は非常に好きなので、いや〜、とってもうれしい。もともと写真をとられるのが非常に嫌いでカメラから逃げ回るタイプの人間なのですが、こうやってひとつの作品としてとってもらうと、そうした自意識過剰のアレルギーを克服して、自分をひとつの他者として受け入れられそうな気がします。

Raphael Gianelli-Moriano:A portrait of japanese philosopher Daisuke ARAYA

Photographer/film director Raphael Gianelli-Moriano has up-loaded my portrait on his site. I’m very grad ‘cause I love his works. Usually, I’m a kind of men who hates to be taken photo and who always runs away from viewfinder. But, this time, wiht a establishment of the artistic work, I could accept my image as an other overcomming the allergy of ‘too much self-conscience’ ^^.


日本へ帰国:retour au Japon

カテゴリー: - araya @ 10時04分59秒

2月にフランスを一度発って、アフリカなど旅行して回り、3月に日本に帰ってきてました。その間、ものすごくいろいろなことがあり、僕自身の今後に関わるようなことも多々あったのですが、それについては、とりあえずまた機会があればということで、さしあたりは4月からは大学に復帰して、2年前と変わらず授業をしてます。

いろいろとご無沙汰をしている諸兄には、またご挨拶させていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

J’ai finalement retourné au Japon après avoir séjourné à Paris pendant presque 2 ans. Je recommence maitennant à travailler à mon université sans aucun changement avant le départ, en apparance. Mais, je me sens moi-même différemment avec l’expérience en France et je ne sais pas pour instant comment le concilier avec la vie à Tokyo. Il peut couter un peu plus de temps pour les synthétiser…


2010年2月12日(金曜日)

L’économie de la philosophie: 哲学の経済

カテゴリー: - araya @ 20時50分55秒

最近どこでも話題になっているので、いまさらニュース的な価値はないが、やっぱり無視できないかということで、エントリを立てておきます。King’s College Londonでの人文学リストラの話。

Jan Palmowski of King’s College, London: The Most Disgraceful Academic Administrator Alive?

採算に合わないから首を切る、という論理が、一応世界の大学ランキングで20何位とかに入っている(早稲田慶応は100何十位。別にいいんだけどね)名門校で出てくるということは、昨今のお国の事情などを勘案するにしても、やっぱりインパクトが大きいと思わざるをえない。でも、こうした事柄に対して、表に出てくる人文系の学者の反応を見ると、依然として旧態的なものを抜け出ていない気がする、というか、広い意味での経済的な視野が欠けていると思わざるをえない。僕が学生のころから言っているように、そしてそれはたぶん若い研究者の間ではかなり敏感に共有されているものだと思われるのだが、言い訳的な仕方でどれだけ「応用」的なことをやったとしても、それを支持するリアルな経済的基盤(リビディナルなものを含めて。昔の人文学はよくも悪くも、メンタリティ形成に関わる経済の基盤をもっていた)がなければ、単なる空虚なマニフェストにしかなりえないわけですよね。しかし、今の現状では、そんなマニフェストではマスコミすら動かせず、小さなコミュニティの中の憤激(そして、大半の実際的に首をきられたりしないひとは、憤激するだけである程度フラストレーションを解消して後は時代のせいにしてしまう)にとどまってしまう気がする。もっと構造的なかたちで変えていかないと、哲学を支える経済は縮小する一方だと思われるし、哲学を欠いた経済もまた、様々な意味で危険だと思う。

今日はこれからBruno Théretの研究会で研修最後の発表だ〜。


2010年1月24日(日曜日)

pour l’économie de la croyance humaine:信の経済に向けて

カテゴリー: - araya @ 06時27分16秒

最近、Anthonyのところの展覧会に関わって遊びに行くことが多い。彼の人脈と人柄によるところが大きいと思うし、パリでも大部分のギャラリーはかなりアーティストを搾取しているようにも思えるが、つくづく感じるのは、こうした直接的な人間関係のつながりを土台にしてアートが立ち上がっていく場というのは、日本では難しいだろうなということだ。自分もその中で生きてきているので、我が身を振り返って反省せざるをえないのだが、どうしても日本の環境にいると、横の協力関係を構築するよりも、すべての物事が最終的に個人(というか、自分)に還元されてしまう流れになってしまう気がする。「いや、そんなことはない、人のつながりは大事だ」ときれいごとをいうのは簡単だし、実際、いろんなひとがほとんど反省のない仕方でそのようなことをいっていると思うのだが、社会的な評価のシステムがすべて個人を単位にして構築されているため、横のつながりが最終的なセイフティネットとして機能しない。そうした状況で、生存の危機が危ぶまれる状態におかれたなら、人はどうしたって人間関係の構築にコストをかけるより、自分の能力開発を第一に考えるようになるだろう。そこでは、共同で何かすることのメリットは失われてしまう。それは、単に政策の問題ではなく、メンタリティの形成をも含めた経済の問題(つまり、リビドー経済の問題)なわけですね。でも、まさにそうした仕方で個人化されることが、ますます危機に際しての被害を大きくし、結果、厳しい状況の深化を加速してしまうわけで、共同で何かをしていくことのメリットは、実際には殊のほか、大きい。だから、必要なのは、共同で何かをすることが、きちんとリビドー経済の中に組み込まれる仕組みだと思うわけです。話としては、まあ単純なことだし、誰もがいっていることだと思うのですが、しかし、実際の経済システムの中でそれが機能するのと、単に表象のレベルで、つまりは気休め程度にしか効果がないところで話をするのでは全然違うわけで、きちんと機能させていくためには、現行の価値のシステムの分析とその中で実践的に変えていく作業が必要になる。そのあたり、日本に帰ってからの課題として肝に銘じておきたいところですが、さて実際、どうして実践していけばよいのやら。身の回りのところでいえば、まずは例えば、研究者の評価システムや共同作業の模索といった地味なところになると思いますが、同じようなことを考えている方、是非連絡ください。搾取はしませんよ(笑)。


2010年1月18日(月曜日)

mixi 再始動?

カテゴリー: - araya @ 04時53分52秒

Facebookをはじめたら意外に楽しかったので、単に開いて放置されていたmixiのアカウントをメンテナンスしようかと。とりあえず日記の外部リンクを書き換える程度と思ったのですが、twitterに対抗したmixiボイスなんてのもあるのですね。転送サービスで発信を一元化できるみたいなので、とりあえずリンクしてみます。


2010年1月16日(土曜日)

cyber wars: protectionism、サイバー戦争における保護主義

カテゴリー: - araya @ 21時42分29秒

Attack contre Gmail which causes the Google’s consideration of shutting down of their site is detected by the engineers of VeriSign as that of the agent of chinese state.(cf. ars technica)

This incident caused the uncompromising affects around the occidental medias, but, as the analyst of Foreign Policy indicates, we should consider it as the matter of political-economy. Shutting down of google site is not a direct threat of china, but, on the contrary, an oppotinity of making growth of their domestic companies. It might be protecsionism in the domain of cyber-economy that would cause the tensions between china and america. We should be very attentive to the reaction contre strong attitude of china, because the inteligents of chinese state are supposed to be conscious about the economical effect of their manner. The naive protests to the censor or the limitation of liberty will lose in the new sort of cyber economic wars.


政局鳥瞰:la politique japonaise dans la perspective à vol d’oiseau

カテゴリー: - araya @ 20時12分56秒

献金問題で石川議員が逮捕された件、ジャーナリスティックな関心で何か分析することには興味はないのだが、漠然とした雲行きというか、集合的な欲望がいかに機能し、どのような結末に行き着こうとしているのか、という点には常に敏感であるので、そうした観点から、いくつか考えてみたい。

先の衆院選以来、民主党に吹いている風について、個人的に思い知らされたのは、第一に、二大政党制を目指すなどという大義名分を心地よく鳴らしているのとは裏腹に、この国では、そのような仕組み自体が欲望されていないということだ。メディアのキャンペーンということだけでなく(なぜなら、メディアも「数字」を目指して国民の欲望に付き従うことを目指しつつ、それによって欲望を統制しているからだ)、自民党を否定し、民主党の政策をほぼ手放しに賛同する空気があれほどまでに一元化しなければ、衆院選でのあれだけの規模の勝利は有り得なかったであろう。政策を議論すべきだという、それ自体では真っ当なはずの麻生元首相の選挙中の演説が、負け犬の遠吠えとばかり、失笑とともにやり過ごされたことは記憶に新しい。当時、一度は民主党が政権を取る必要があると考えていた僕でも、あれだけの数の実体のよくわからぬ議員を産出してしまったことには、深い危惧を感じざるを得なかった。

大騒ぎして人気を博した仕分け人劇場の影で、仕分けで削減しえた規模とは比べものにならない額の史上最大の国債を発行したときにも衰えなかった民主党への風は、この逮捕にいたっても、なお健在であるようにも見える。フランスに来ているため、ネットのメディアしか使えていない状況ではあるが、メディアの風向きは、政権否定という方向に流れておらず、黒い人小沢の問題ということでまだ収まっているように見える。そんな中で、民主党政権発足以来、影の権力者というイメージが国民にもはっきりと伝わるかたちで示されて来た小沢にまで、今後操作の手が及んでくるとして、果たして、自民党否定、新しい政権期待といった空気まで急速にしぼむことはありうるだろうか。小沢の強気も、そうした空気を最大限に利用し、そしてその空気を死守するための方策だと思われるが、俯瞰的に政局を眺める立場から危惧されるのは、仮に民主党を支えている欲望が消え去ったとして、メディアのレールに安住して注入先にさほど苦労してこなかった欲望たちが、目前の対象を見失い、一時的な混乱が引き起こされる事態だ。常に集合的に「正解」を与えられて来たひとたちに、今回もまたメディアは結束して「勝ちそうな官軍」を示すことはできるだろうか。ふだんアレルギー的に排除してきた不確実性の谷間に落ちた時、「リーダーシップ」で輝いて見えるだけの人材が一気に注目を集めて政権をとるなどという事態が引き起こされ、経済的にも国際政治的にも大きな損害を負いながら、ナショナリスティックな「自信」だけがこの国を閉ざしてしまう、などといった極端な事態が心配されてしまう。その状態を機に、もっとリアルなものに基づいた理想的な政治の形態へ移行するなどということは、哲学というか宗教というか、確たる「信」を欠いたまま、自らのアイデンティティを流れ行く表象に委ねている日本の現状からは望みようがないのだろうな。。。


2010年1月14日(木曜日)

trademark: Picasso

カテゴリー: - araya @ 18時59分52秒

知り合いの、名のある画家のアトリエに遊びに行った際、ピカソは生前自分の名前を商標登録して財産を築いていたという話を聞いて、そんなときから経済と芸術の相互浸透がはじまっていたのか、と驚いて調べてみたところ、ちょっと話は違うよう。ひとずての噂というのは、こういうこともありますね。僕が辿り着いたのは、1994年にManders Paintings というイギリスの会社がピカソを含む複数の有名画家の名前を商標登録、ピカソの遺族と裁判で争っていたのが、イギリスの会社側に軍配が上がったという記事。

BBC NEWS

94年という年代はちょうどそういう頃だと思うので、僕的には納得のいくところでした。


2010年1月10日(日曜日)

Gershom Carmichael(1672-1729), Natural Rights on the Threshold of the Schottish Enlightment, 2002

カテゴリー: - araya @ 02時10分20秒

the first professor of Moral Philosophy at the University of Glasgow.

citations:

#Relation with Barbeyrac

The outstanding authority on natural jurisprudence in the early eighteenth century was Jean Barbeyrac(1672-1744)….He considered the early modern natural law tradition the most effective antidote to skepticism in morals and politics….Carmichael wrote to Barbeyrac and sent him a copy of the first edition of his Supplements and Observations on Pufendorf’s work On the Duty of Man and itizen. Barbeyrac responded in kind.*…The two men agreed that Pufendorf had made insufficient provision for the natural right of self defense. They agreed that Locke’s explanation of the right of property as the product of labor was more satisfactory than Pufendorf’s account, which made proprietorship dependent on consent. They further agreed attempts to eprive its subjects of ther rights. But they frequently differed: on the interpretation of contracts; on quasi contracts, or obligations arising from the circumstatnces of life; on the rights of slaves; on whether societies, as distinct from governments, had their beginning in a contract; and on the rights of conquerors. Their differences turned ultimately on whether considerations of humanity, of a disposition of reverence for the natural jurisprudence. Barbeyrac was skeptical of the appropriateness of such considerations in natural low. In Carmichael’s understanding of the law of nature, reverence for God and fof God’s creation ware mtters of fundamental importance.

*Letter of 3 February 1720 from Jean Barbeyrac to Patrick Simson, in Glasgow University Archives MSS Murray 660, fol. I [Foreword by editors, pp.xiv-xv]

#Relation with Huthchson

Carmichael was succeeded as Professor of Moral Philosophy at the University of Glasgow by Francis Hutcheson, who generously acknowledged his debt to Carmichael in his own work prepared for the instruction of students, A short Introduction to Moral Philosophy:

The learned will at onece dicern how much of this compend is taken from the writings of others,…to name no other moderns, from Pufendorf’s smaller work, de officio hominis et civis, which that worthy and ingenious man the late Professor Gershom Carmichael of Glasgow, by far the best commentator on that work, has so supplied and corrected that the notes are of much more value than the text.

[ibid.,p.xv]

#Looking for individuel happiness and its way to God

It is natural for man to strive to be as happy as he can and to avoid misery so far as possible. It follows that he will use the faculities in which man excels so that his will may be determined to choose and perform those actions which he thinks will lead to his greatest happiness, and which will permit him most effectively to escape misery….But man is also endowed with a faculty of reasoning which , when he employs it correctly, allows him to understand that he was created not by himself or for himself alone: that he and all he has derives from God, who is alone all that is both great and good…..He[Man] is also able either so to arrange his actions as to testify to his love and veneration for his creator and Lord, and so in an acrive way to serve his glory.[Supplements and Observations, pp.21-22]

#Reason
We are also led to the same conclusion by the fact that the human mind is fitted to feel the greatest pleasure and delight in actions which are most comformable to reason. Such actions are, above all, those which show love, esteem, and veneration for a most perfect object.[ibid.,p.24]

#to be natural and God
Divine law is declared by two means. It may be declared by the express signs, for example by voices and writing, and when declared by this means it is called the posirive law of God. It may also be declared by the very constitiution of human nature and of the other thins which are open to mens’s observation by these things and by the transcendent perfections of th Deity…certain actions of men… necessarily signify in the one case love and veneration toward the Deity and in the other case ontempt and hatred; and thus they must be regarded by God Himself as signs of moral sentiment: and when the will of God is signified in this latter mode, it is called the natural law. [ibid.,p.28]

#natural theology

The knowledge of God which is drown from nature itself is usually called natural theology…It[the knowledge] also commens itself by its utility, since the whole of the philosophy of morals is built upon the principles of this knowledge…If we extend the term natural theology as far as the word theology is usually extended by theologians in the case of revealed theology (theology defined as the doctrine of acknowledging God and worchipping him, where the term “worship” implies obedience to all his commands), moral doctrine, as we have said, will have to be considered as its second part.[A Synopsis of Natural Theology, p.2]


2010年1月9日(土曜日)

Jean Bodin, Discours de Jean Bodin sur le rehaussement et dimintion tant d’or que d’argent, et le moyen d’y remedier, aux Paradoxes du Sieur de Malestroit, Gabriel Cartier, 1608

カテゴリー: - araya @ 03時43分11秒

・debut de l’économie politique

En critiquant Malestroit, Bodin montre des causes du rehaussement du prix. L’abondance d’or et d’argent par la découverte du nouveau terrain et des monopoles des marchandises et la disette par les dégâts et les plaisirs des rois et des grands seigneurs que Bodin nous indique comme causes de l’enchérissement sont bien pertinentes à l’économie politique d’aujourd’hui. De sorte que l’on considère Bodin comme un commencement de la théorie économique. On peut aussi trouver dans ce livre l’héritage du stoïcisme.

citations:
Je dy plus, quand nous serions accomplis des dons de Dieu, de tout ce qui peut estre donné aux hommes, en armes & en loix, sans criante ni esperance d’autruy, si est-ce que nous leur devons cette charté, par obligation naturelle, de leur communiquer les graces que Dieu nous avroit faites, les apprendre & façooner en tout honneur & vertu. [p.60]


2010年1月8日(金曜日)

Absence et transcendance de G spot

カテゴリー: - araya @ 18時24分31秒

Rue89Japon

調べてみたらGスポットの存在を確定できなかった、とのこと(笑)。要素還元主義の盲点っていうやつですね。ベルクソン主義者としては、脳の局所論も「個別性」にかかわるスコープが違うだけで、同じようなものだと思いますけど、まあこのあたりは議論のしどころでしょうか。ただ、科学者が語る神話をあまりにも盲目的にわれわれが受けとっているということでもある。フランソワ・ドルトが、Gスポットを、冗談まじりとはいえラカン的な意味での不在の超越と捉えている点が面白い。

Rue89

D’après la recherche anglaise, on ne peut pas trouver le G spot. Je pense que c’est une chute du réductionisme. On pourrait douter de la même manière la localization des fonctions de cerveau dans le perspective bergsonienne, même s’il y a des différences de niveau de la spécificité. L’allusion lacanienne de F. Dolte sur le transcendance de G spot m’interrese bien.


Jean Bodin, Les six livres de la république (Corpus des OEuvres de philosophie en langue française, Fayard, 1986)

カテゴリー: - araya @ 00時06分32秒

・個々人の利益を守るための絶対王制の成立

統一的な社会を構築することが、個々人の財を守るための手段となる。統治システムをひとつに統合することで、サブシステム間の調整コストが緩和され、理性というひとつの基準で物事を判定することが可能となる。全権を君主に依存しながら、それが専横に結びつかないのは、君主が神的自然に服従しているから。そのとき機能する「自然」の構築に、ストア派の再解釈が支えとなっている。

cf. Nicolat Henschall, The Myth of Absolutism, 1992
Jean-Fabien Spitz, Bodin et La souveraineté, PUF, 1998

そうなると、しかし、ボダンにおいてすでに、ルソーの絶対主義へ接続する議論の芽が存在していたことになるだろう。よく知られているように、ルソーの市民社会論は、すべての市民が自分の財を完全に委譲することによって成立するものなのであった。

引用集

…quid sutem magis populare quam quod scribere ausus sum, ne regibus quidem licere, sine summa civium consensione, imperare tributa ? [Bodin, p.19]

Toutesfois, puis que l’homme sage est la mesure de justice et de verité, et que ceux là qui son reputés les plus sages demeurent d’accord, que le souverain bien d’un particulier, et de la Republique n’est qu’un, sans faire difference entre l’homme de bien, et le bon citoyen… [Bodin, I. chap.1, p.32]

  
・Fondation de l’absolutism pour la garantie des intérets des individus

Établir l’absolu dans le système social était, pour les individus, un moyen de garder leurs biens. L’integration de système reduit le cost de transaction entre sub-systèmes et éclaire le domaine judiciaire par l’une et même lumière de la Raison. Tandis que tout le monde transmet ses droit au Prince, l’obéissence à la nature divine du Prince ouvre la piste de control du pouvoir. La lecture du stoicism chez Bodin rend possible de fonder ce système social.

cf. Nicolat Henschall, The Myth of Absolutism, 1992
Jean-Fabien Spitz, Bodin et La souveraineté, PUF, 1998

Ainsi, on pourrait dire qu’il y avait un bourgeon de système modern dont on a l’exemple chez Rousseau, puisque l’absolutism rousseauien demande aux tous les membres de transmettre leurs biens et, par cette délégation, forme la société unanime entre eux.

citations:

…quid sutem magis populare quam quod scribere ausus sum, ne regibus quidem licere, sine summa civium consensione, imperare tributa ? [Bodin, p.19]

Toutesfois, puis que l’homme sage est la mesure de justice et de verité, et que ceux là qui son reputés les plus sages demeurent d’accord, que le souverain bien d’un particulier, et de la Republique n’est qu’un, sans faire difference entre l’homme de bien, et le bon citoyen… [Bodin, I. chap.1, p.32]


2010年1月7日(木曜日)

twitter and facebook

カテゴリー: - araya @ 23時36分44秒

使いこなせるかどうか全然わからないのですが、twitter と facebook をはじめてみました。

よくわからないままに、Tip関連を調査中。落ち着くまでご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします。

I have just started twitter and facebook without any hope of using well. now on the survey of some tips, sorry for bothering.


2010年1月3日(日曜日)

Toshinari Sato@A2Z-art

カテゴリー: - araya @ 22時44分50秒

資本主義化したアート業界に一石を投じようということではじめられたAnthoty Phuongの試み、A2Z-artの展覧会で佐藤さんの作品を見る。すごくよい作品だと思ったのだが、おそらく写真に撮られたり流通する過程ではいろいろと不利なところがあるだろうと思われたので、直接みることのできた立場から、ちょっと書いておきたい。

映像の創造性を決して否定するわけではないが、再現性という観点から見たとき、芸術的な対象がもつリアリティを映像というメディアが取り落としてしまうことは、よく指摘されることだろう。例えば、フォーサイスのOne flat thing reproducedをThielly de Mey が映像化した作品は、それ自体としてよくできたものとはいえ、ローザスのビデオを手がけていた彼の味が全面に出るものになっているし、舞台で見るときの印象とはやはりだいぶかけ離れている。衣服の表面を内側から充溢させながら、静謐な力を溢れださせる、佐藤利成の人型のバラのオブジェを見たとき、まず最初に意識されたのも、そうした、直接的に感得される現実に対する再現メディアの隔たりだった。花によって人を形作るという、容易に観念的に捉えられ、かつ耽美的なイメージ(ともすればロマンティックなそれ)へとすぐに接続されてしまいそうな事柄が、そこに直接存在するものの力だけによって強く観念化に抗しているという事態が、非常に危うい仕方で、しかし、まさにそのことによって現実の力の存在を指し示していたからだ。

実際、打ち放しのコンクリートの床におかれた白いソファに、半ばもたれかかりながら座る、そのバラの形象は、強い喚起力をもって、見るものに「何か」を思い出させる力を持っている。我々の観念に強く訴えつつ、それは、記憶の中の何かに結びつこうとするのだ。しかし、その「何か」を実際に記憶の中に見つけて安心することはできないだろう。思い出される記憶たちはすべて、目の前にたち現れているものに対して不足していたり、ずれを持っていたり、決してぴったりとはまって観る者を安心させることはない。あくまでも静な佇まいの中に投げかけられるその力は、それゆえ、漠然とした死のイメージをまとうことになるだろう。遠い記憶の中にかつて存在していたはずの「あるもの」が、決して具体化しないままに、生のバラの充溢の中に臨在するのである。もし期間中にパリに来れるようならば、是非直接見ていただいて感想を聞かせてもらいたい。

A2Z-art


謹賀新年

カテゴリー: - araya @ 20時45分35秒

だいぶさぼってしまいましたが、新年を機にまた情報化生活を再開してみようかと思います。最近つとに感じますが、ライフハックとか、つまり日常的な身体の改造ですよね。フォローをしてなかった期間に進んだ様々なティップの発達に驚きつつ、思索の時間の深さが奪われないよう、何とかバランスをとっていきたいと思います。

今年もどうぞよろしくお願いします。


2009年5月4日(月曜日)

Emmanuel Gat, Hark!/Nacho Duato, White Darkness/Angelin Preljocaj, MC14/22 «ceci est mon corps»

カテゴリー: - araya @ 01時42分51秒

違う振付家の三作品をガルニエで見る。だいぶ前にチケットを買ったのでプレルジョカージュだけだと思っていたのですが、三つあってよかったのやら悪かったのやら。

最初のガットという人は若い人のようで、これまで知らなかったのですが、結局あんまり関心しませんでした。クラリネット奏者から振付家へ転身したイスラエル人ということですが、ダンスについてのセンスはもとより、音楽の使い方についても疑問を感じます。振付けのボジャブラリーは単純で、限られた要素を使い回している感じ。ボキャブラリーの貧困自体は、あるいは悪いことではないかもしれないのですが、それぞれのフォルム(まさにそれぞれ独立したミニマルなフォルムを組み合わせている感じで振付けができあがっている)が、なんというか、鏡で自分を映しながら「これって今までどんなステージでもみたことなくね?」みたいな、観念先行というか、結果として出てきたかたちにしか興味がないというか、つまり、ダンスのよさみたいなものを全然わからずに、単に「コンテンポラリーっぽい」という価値観によって振付けが作られている気がしてなりませんでした。一点だけ面白いと思ったのは、何人ものダンサーが単にポアントで立ち、そのポアントを維持するために足を小刻みに踏むということをいくつかの組み合わせで見せる場面で、それが無言で立ち泳ぎをしているというか、無生物がブラウン運動をしているというか、生物と無生物のあいだでフォルムが次々に変化していくように見え、バレエのポアントの動きの不自然さを強調しながら、うまく利用できていると思いました。まあ、でも同じ手を二度使えないという点では、やはりコンセプチュアルな振付けということになるでしょうか。

反対に、ものすごくよかったのは、ナチョ・ドゥアト。日本でも名前があがっていたし、作品も来ていてみたはずと思っていたのですが、あるいは記憶の間違いか、ちょっと忘れられないほどよかった。天井から滝のように砂を落としながら、その流れのひとつひとつを際立たせるように照明を用いる場面を典型として、全体的にポエティックな雰囲気が出されている作品ですが、少しもロマンティックではなく、むしろ動きのボキャブラリー自体は、そうしたロマンティシズムを壊すようなものを不断に取り入れていて、全くコンテンポラリーなものになっています。しかし、ガットのものとは本当に好対照で、ひとつひとつの動きとその組み合わせ方に力動感と情熱的な何かがあふれており、これが25分という短い作品でなく、もっと大掛かりなものであれば、極まって泣けてくるだろうと思わせるぐらいでした。無言の、そして全く記号化されていない動きの連なりが、いかなる物語も媒介にせず、いいようのないぐらい差し迫ったものを提示するというのは、なかなかできることではないでしょう。音楽の解釈も非常によくできていて、必ずしも音楽に合わせているわけではないにもかかわらず、ダンサーの動きによって歌いだされる固有の音楽(これが本当に何か無言の歌のように聞こえてくるからすごい)と不意にピタリと一致する場面が現れるといった具合。振付けによるその音楽も、僕はこれまで出会ったことがないもので、フォーサイスやピナ・バウシュとも異なる、全く独自のものであるように思います。とにかく、今度何か会ったときには必ず見ようと思わせるに十分なものでした。

ドゥアトの圧倒的なまでのよさの後ということもあるのか、プレルジョカージュのものは、あまり、というか全然いけてない感じに思えました。前のエントリでは、この人はコンテンポラリーというよりも保守革新というべきではないかと書いてましたが、この作品は、まさにコンテンポラリーを志向している感じで、それがことごとく失敗している気がしてなりません。上半身裸の男たちが互いに暴力を振るいながら、醒めきった空間に力だけが表現されるという感じの構成でしたが、暴力の描き方がいかにも記号的で、前に見た作品でよいと思われた細かいニュアンスの表現はどこかにいってしまい、ともすれば段取りを消化しているだけという感じ。男だけでむさいのも、わざとだとしても何だかなぁ。組体操しているようにも見えましたですよ。あるペアで張り倒し合いを一席ぶったあと、みんなでポーズをとって「ハイ、照明カマン」みたいなのが、一度や二度ならず、10分ぐらい続けられた日には、帰ろうかとすら思いました。それは確かに、彼らの肉体が彫刻みたいで、それが照明で異化され、ポーズの組み合わせによって絵画的にみえるでしょうよ。しかし、そんなのはダンスではないのであって、時間をわざわざ観客と共有して見せるものではないのではないですか??最後の最後、ひとりのダンサーが身体の部位をどんどん拘束されながら、それでもなお同じ振付けのダンスを踊り続けるという場面になって、むき出しの暴力というか、身体の自由の拘束が、大文字の死へと連なっていくことが非常に簡潔な装置で表現され、「ああ、やっとこれからよい舞台になっていくのか。いや、心配したけれど、前半きつかったなぁ」と思えたのですが、しかしそのとたんに終わってしまいました。

オペラ座のレパートリーになった作品を含めて、短いピースをセットにして提示するというのは、よいですが、しかし、総じて、互いの作品が与える効果というのももう少し考えた構成にしてもよいのでは、と思います。二本立ての映画を見て頭がごちゃごちゃになる感じ。前半コメディで後半ドラマみたいな。お得な感じもしますが、かえって損したような気がしてならない夜でございました。


2009年4月17日(金曜日)

Forsythe-Ballet de l’Opéra de Lyon

カテゴリー: - araya @ 07時02分44秒

リオンのオペラ座バレエのフォーサイス作品レパートリーを、パリ市劇場でみる。Second Detail(1991), Duo(1996), One flat things, reproduced(2000) とこの十年間のフォーサイスの変化を一時に並べてみるというのは、これまでなかったので興味深かった。とりわけ素晴らしかったのは、Second Detailで、もう驚愕に等しい。「フォーサイス的」と形容される典型ともいえる作品だし、かなりなじんでいるはずのものだと思うのに、なんかこれまで全然見たことのないものを見たという感覚になるから不思議だ。Thom Williamの曲とかも、iPodに入れてちょくちょく聞いているはずなのに、戦慄に近いものを感じる。これは何なんだろう、と言語化しないといけないと思うのだが、オフバランスとかバレエの解体とかひととおり言われていることでは尽きない何かを書けるかよくわからない。が、試しに下記で試みてみましょう。とりあえずブログだったら構えなくてもいいし。なんやかんやいって、芸術的な対象のよさを言語化する作業って、文章が試されるというか、勉強になるので、結構楽しいかも。

これに対して、最近のものに近づくにつれて、とりわけOne flat thingsですが、よかったにはよかったものの、あまり関心しませんでした。これはひとえにフォーサイスのカンパニーの公演がよすぎたためで、リヨンのバレエダンサーにやられると、あのもはや有機的ともいえるような動きの中のところどころに、バレエバレエした跡がバリバリに出てしまって、ダンサーたちもやりにくかろうと思わずにはいられません。前期フォーサイス(といってしまっていいと思うのだが)のバレエの解体作業にバレエダンサーの動きはピタリとはまるのだが、後期の作品だと体の作り方の違いがもろにでてきて、フォーサイスのところで研究をしていないと出せない動きがあると思う。たぶん身体能力は今日のダンサーたちの方が上だと思う(ひとりなんかものすごい跳躍力で、バレエのジュテの動作そのままでテーブルの上に上がってしまえるほど。これはすごい)のだけれど、動きとしてはフォーサイスのとこのダンサーの方が断然いいですね。

さて、それで、Second Detailのよさについて。今回特に印象に残ったのは、たぶんこれは上のようにバレエダンサーだからかもしれないのだが、「キメ」的な要素が随所に見られたことでした。「キメ」と書いてしまうと、パターン化されたお決まりのかっこよいポーズを静止して見せて、その「同一性」を観客の間で共有するという、芸術というよりも大衆演芸に近いものを惹起させてしまってよくないのですが、そういうことをいいたいのではなく、形式とその変化をきちんと見せていこうとするフォーサイスの志向が、ものすごい早い展開の動きの中に、フラッシュのように、ある絶対的な動きの強度をまさにそれ以外のかたちではありえないという仕方で現れているように思ったからですね。ではなぜわざわざ「キメ」という平板化された言葉を使いたいかというと、これは体を実際に動かしてみないとわかりづらいことではありますが、どれだけパターン化された「キメ」の動きの中にも、ある種の身体的強度がないと実現できないと思うからです。試しにテレビで見る俳優/女優のかっこいい動きやかわいいしぐさを自分でまねしてやってみましょう。従来もっている顔かたちとは全然違うレベルで、全然「様」になっていない自分を発見できます。この「様」というのが重要で、つまり、あるものがそうあることの必然性というか、あるものをそのようなものとして提示するためには、何らかの身体の内的構造に支えられていないといけないことがわかります。つまり、「いよっ、待ってましたぁ!」ばりの必殺キメキメ・ポジションにおいても、まあ当たり前ですが、ひとは某かのよさを見ているわけですね。フォーサイスがとりわけすごいのは、これまで全く見たことがない動きの中に、その種の必然をほとんど絶え間なく現出させていることで、いってしまえば歌舞伎役者がここぞというときに、そして少しばかり物語(とお約束)の力をかりて我々に提供するものを、純粋に身体のうごきだけで絶え間なく繰り出し、人がそれをそれとして同一化することができないほどであるというところです。ここに、まさに奇跡としかいいようがない、という感覚が生まれる素地があります。実際、フォーサイスを踊るダンサーたちは、それまでこの世に存在していなかったものを、いくらでも望むかぎりに創造可能なようにさえ見えます。瞬間々々に瞬く各々のかたちが、それぞれ(まったく全体化することなく)「必然」の様相をもつわけですから。そうした、これまで全く見たことのない必然が、物語もないままに、ひとつの構造をなして世界を現出させる働きを、フォーサイスは持ちえていることを、今日、またあらためて確認した次第です。


2009年4月7日(火曜日)

草間彌生のケータイ

カテゴリー: - araya @ 17時18分01秒

すごい。びっくりしました。

  • 草間彌生氏が手がける“アート”な携帯電話3作品
  • 写真をみる感じだと、かなり禍々しさが中和されている感じもありますが、ちょっとみてみたいですね。ショップにならんでいるというだけで面白そう。作品として有名なところをフィーチャーしているってところでしょうか。草間彌生の作品って、サブカルみたいなものに接続されるとかなり誤解を与える恐れがあると思うのだけれど、まあ作品を管理しようなどということとは無縁のひとでしょうから、よいのでしょうか??マーク・ニューソンだったらプロダクト・デザインということで別に違和感がないけれど、草間彌生は別物ですからねぇ。。。そこらへんのいかさまアーティストがマーケティング意識バリバリでやるときと同じようなフォーマット(「〜が手がける・・」みたいな)で紹介されているというのもまた。。。

    考えると、しかし、軍事的な利便性からはじまってアクセサリー化した腕時計に変わるような位置を、すでに携帯はもっているのかもしれませんね。実際、「時計萌え」って、男性中年雑誌では昔からかなりあおっているけれど、もうだいぶ前からアクチュアルな流れではなくなってますし。少し金回りのよいビジネスマンなどは、若い人でもオヤジ対策で(あるいはすすんでその「カルチャー」に浸って)金をかけなければと思うひともいるかもしれませんが、車をいろいろと乗り回していることがそんなに「カッコいい」ことではなくなって、若い人の車離れが加速しているといわれるように、時計も本当の利便性というところ以外では欲望を牽引する力をだんだんもたなくなっているのでしょう。

    調べていたら、auのデザインケータイが、MoMAのコレクションに入っているとのこと。明確にターゲットを絞っているわけですね、KDDIは。


    2009年4月6日(月曜日)

    かなまら祭

    カテゴリー: - araya @ 00時57分50秒

    日本にいるキースから写メをもらう。ひさしぶり〜。年に一度、4月の第一日曜(つまり今日)開かれた川崎の金山神社のFestival of Iron Phallusにいってきたとのこと。面白かったので許可をもらって転載させてもらいます。しかし全然フランス便りではないですね。。僕は全然知らなかったのですが、調べてみたら一部界隈では結構有名みたいです。上野の不忍池の弁天のうらの、今はもうひとが入れなくなって荒れている社が昔そうだったっていう話は聞いたことがありますが、今でもお祭りとしてやっているというのはすごいです。今やられているのは戦後に外国の民俗学者が「発掘」したのを機に再興したものらしいですが、結構各地にそれらしい痕跡はあるみたいだし、人類学的にいっても精神分析的にいっても面白いテーマですね。これだけ有名なのだったらすでに結構研究されているでしょうし、帰って暇があれば調べてみたいと思いました。とりわけ知りたいのは、やはり、まんまですが「ファルス」の機能ですね。こうしたお祭りが、何らかのイニシエーション的な機能を担っていたとすれば、その詳細を知りたいところです。

    しかし、今は、賑わっている人々の間で、このお祭りが共同体形成的な機能を担っていると考えることはもちろんできず、地域振興的なパフォーマンスになっているというのが妥当な線でしょう。実際、日本のメディアではなかなかとりあげづらいでしょうが、海外では結構報道されているみたいですし、あきらかに川崎市民以外の参加者が大部分を締めているように見えます。しかし、僕自身はいったことがないので雰囲気を推し量ることしかできませんが、先日のようなヤン・ファーブル的な毒が、とにもかくにも社会的なものに繋がっている状況というのは、それなりに面白いと思いました。女装サロンの「エリザベス」からの献納といわれる下のピンクの神輿など、なかなかの毒っぽさです。

      

    Keith2

      

    Keith1

    photos by Keith M.


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